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●監督:ロバート・ゼメキス、脚色:ニール・ゲイマン、ロジャー・エイヴァリー プロダクション・デザイン:ダグ・チャン 衣装:ガブリエル・ベスクッチ 音楽:アラン・シルヴェストリ 製作:スティーヴ・スターキー、ロバート・ゼメキス、ジャック・ラプケ 製作総指揮:マーティン・シェイファー、ロジャー・エイヴァリー、ニール・ゲイマン 共同製作:スティーヴン・ボイド
●出演:レイ・ウィンストン、アンソニー・ホプキンス、ジョン・マルコヴィッチ、ロビン・ライト・ペン、ブレンダン・グリーソン、アリソン・ローマン、アンジェリーナ・ジョリー
●2007年/アメリカ/2007年12月1日 日本公開
●配給:ワーナー・ブラザース
●出演:レイ・ウィンストン、アンソニー・ホプキンス、ジョン・マルコヴィッチ、ロビン・ライト・ペン、ブレンダン・グリーソン、アリソン・ローマン、アンジェリーナ・ジョリー
●2007年/アメリカ/2007年12月1日 日本公開
●配給:ワーナー・ブラザース
今回、監督ロバート・ゼメキスが送り出す英雄譚「ベオウルフ」に再解釈を加えた作品は、監督も前作『ポーラー・エクスプレス』でお披露目済みであり、昨今とても大げさに称賛されているモーション・キャプチャーの技術をさらに進化させて完成させたものではある。俳優たちは皆、筋骨隆々で、時に感動的なシーンもあるにはあるのだが、結局のところは魂の抜けた作品になってしまっていると言わざるを得ない。視覚効果の見事さや迫力満点のバイオレント・アクションがありながら、血に飢えた連中が次々に登場する、古い英国の英雄伝の焼き直しであるこの作品は、血の通ったデンマーク族や悪魔族を打ち破れなかったというよりは、むしろ俳優たちがデジタルで作った蝋人形にしか見えないという欠点を打ち破れていない。だが、神話の修正と血まみれの乱闘を、商業的には賢明と言える手口で組み合わせ、『300』の観衆を狙っている作品として、若い観客には受けが良く、世界中で活発な興行を展開することにはなるであろう。
スカンジナビアの伝説を力み過ぎとも言えるほどスタイリッシュに描いたハリウッド映画
パラマウント映画が標準的な2D、そして3D、そしてまたIMAX3Dシステムでも、この作品を公開することから、3D好きの財源からも余剰の収入を見込めるのであろう。特にIMAXの特大スクリーンでは、この作品が本来持っている攻撃的な側面が最大限に浮き彫りにされている。槍や、血糊や唾、挙句には臓物の一揃えが飛んでくるわで、もしこの映画(PG13指定)が実写で仕上げられていたら、R指定になることは間違いがないほどの映像っぷりである。元々の物語はアングロ・サクソン語で作り上げられ、その後スカンジナビアで伝説となり浸透していったものなのだが、ゼメキス監督の手による、力み過ぎとも言えるほどスタイリッシュなこの映画は、まったくもってハリウッドが生み出す、重みのない大作にあるアメリカ的な常套句を語っているに過ぎないものである。
ファンタジー小説家ニール・ゲイマンと共同脚本家ロジャー・エーヴェリー(『ルール・オブ・アトラクション』、『パルプ・フィクション』)は、単に「ベオウルフ」と言うだけだと、多くの人間が退屈だった高校の英語の授業を思い出すことを知っていたことに疑いがなく、そこで二人が行ったのは、オリジナルの英雄譚を欲望と権力渦巻く不正の典型としてとらえた上に、名ばかりの戦士と王の戦いの中に裏切りの色をより濃く描き出すという危険を冒している。結果のほどが実に興味深いところである。また脚本家たちは、この物語に6世紀のデンマークを舞台にしているとは思えないほどはっきりと現代的な、高揚感たっぷりの性的な雰囲気や下品なユーモアを持ち込んでしまっている。これが折に触れて、とても邪魔に感じる。
ファンタジー小説家ニール・ゲイマンと共同脚本家ロジャー・エーヴェリー(『ルール・オブ・アトラクション』、『パルプ・フィクション』)は、単に「ベオウルフ」と言うだけだと、多くの人間が退屈だった高校の英語の授業を思い出すことを知っていたことに疑いがなく、そこで二人が行ったのは、オリジナルの英雄譚を欲望と権力渦巻く不正の典型としてとらえた上に、名ばかりの戦士と王の戦いの中に裏切りの色をより濃く描き出すという危険を冒している。結果のほどが実に興味深いところである。また脚本家たちは、この物語に6世紀のデンマークを舞台にしているとは思えないほどはっきりと現代的な、高揚感たっぷりの性的な雰囲気や下品なユーモアを持ち込んでしまっている。これが折に触れて、とても邪魔に感じる。
不気味なマネキン人形の様な映像が、この物語に神々しさを与える
結果としては、ゼメキスが最初に俳優たちの顔や体に白い点をさまざま貼り付けて、その演技をキャプチャーするという手法を採用した『ポーラー・エクスプレス』よりは、生き生きとした物語が語られるということになってはいるが、もともと前作には魅力がなかったことも、ここで確認しておこう。『ベオウルフ/呪われし勇者』で同じようにデジタル化された俳優たちは不気味なほど、ルネッサンス見本市か何かの店先に並んだマネキン人形のようにしか見えない(この映画は、アカデミー映画芸術科学協会には、アニメーション映画として提出されている)。また、輪郭柔らかに、写真かと見まがうほどにリアルなスタイルは、実写ともアニメとも、おとぎ話ともビデオゲームとも言えず、その間のどこかには存在するのだが、その一方、この文脈的には、そのスタイルがぴったり来ており、物語に曖昧模糊とした神々しさを与える手助けにはなっている。
ハンサムかつ高慢なベオウルフによる見ごたえのある決闘シーン
『ベオウルフ/呪われし勇者』は、年老いた王フロースガール(アンソニー・ホプキンス)と彼の年若いが、長く悩みにくれる妻ウィールソー(ロビン・ライト・ペン)が暮らす宮廷で繰り広げられる祝宴のシーンから始まる。しかし、その楽しげな様子も、恐ろしい悪魔グレンデル(クリスピン・グローバー)の登場で一変。抜群のグラフィック効果で描き出されているグレンデルだが、『バイオハザード』シリーズから借りてきたように見えてしまうのは否定できず、フロースガール王の家来たちの手足をつぎつぎともぎ、がつがつと貪り食って見せた上に、気落ちした王の座を自分のものにしてしまう。
そこに現れるのは、格好いいゴーティ顎鬚をたくわえたベオウルフ(レイ・ウィンストン)と彼の従士ギーツメン。二人はデンマークの海岸に降り立ち、グレンデルの恐怖による支配を終わらせることを決意する。ハンサムでいて、高慢、しかし自分の弱点は素直に認めようとしないベオウルフだが、惜しげもなく素肌をさらし、同じように半裸(こちらはフォトジェニックとは言えないが)の怪物と王の大広間で決闘を繰り広げる。長々続く決闘シーンは、ベオウルフの勝利で終わるが、その曲芸のような殺陣だけでなく、『オースティン・パワーズ』にでて来るようなもみ消し工作を展開してくれるところも見ものである。
そこに現れるのは、格好いいゴーティ顎鬚をたくわえたベオウルフ(レイ・ウィンストン)と彼の従士ギーツメン。二人はデンマークの海岸に降り立ち、グレンデルの恐怖による支配を終わらせることを決意する。ハンサムでいて、高慢、しかし自分の弱点は素直に認めようとしないベオウルフだが、惜しげもなく素肌をさらし、同じように半裸(こちらはフォトジェニックとは言えないが)の怪物と王の大広間で決闘を繰り広げる。長々続く決闘シーンは、ベオウルフの勝利で終わるが、その曲芸のような殺陣だけでなく、『オースティン・パワーズ』にでて来るようなもみ消し工作を展開してくれるところも見ものである。
ジョリー演じる爬虫類系女王の登場シーンは出色の出来
しかし、ベオウルフは直後、もっと強力な敵、復讐に燃えるグレンデルの母親と対峙する。ベオウルフは彼女を海綿状の巣のようなところで打ち倒そうとするが、誘惑する気満々なアンジェリーナ・ジョリー演じる蛇のように狡猾な女が相手では、太刀打ちできるわけもないことがはっきりしてしまう。この爬虫類系の女王様の登場シーンは出色の出来で、全裸の体を金色に塗り、ピンヒールの靴だけを履いて、とんでもなく思わせぶりなアラン・シルベストリの調べに乗せ、ゆっくりとフレームインしてくるという代物。
ここが原作から最も遠くに離れてしまう部分なのだが、ベオウルフはなんと、この明らかに男根崇拝の巣の中に閉じ込められた悪の女王様と契約を結んでしまうのだ - これによって、ベオウルフはフロースガールの法廷推定相続人としての地位を確固たるものにしてしまう。純粋主義者や学者たちは、この下劣なひねりを快く思わないだろう(とはいえ、このことで、この映画の前半で起きたことは、都合よく、その10年後に起きる事件とつながることになる)。だが、この契約によって、ベオウルフが悩みを抱えた人物として見え、結果として真に悲劇的な人物となることに議論の余地はないだろう。
ここが原作から最も遠くに離れてしまう部分なのだが、ベオウルフはなんと、この明らかに男根崇拝の巣の中に閉じ込められた悪の女王様と契約を結んでしまうのだ - これによって、ベオウルフはフロースガールの法廷推定相続人としての地位を確固たるものにしてしまう。純粋主義者や学者たちは、この下劣なひねりを快く思わないだろう(とはいえ、このことで、この映画の前半で起きたことは、都合よく、その10年後に起きる事件とつながることになる)。だが、この契約によって、ベオウルフが悩みを抱えた人物として見え、結果として真に悲劇的な人物となることに議論の余地はないだろう。
見世物感を優先したことにより、深みのある道徳観が欠如してしまった作品
元々の叙事詩は、その当時のキリスト教徒と異教徒の影響の間にあるぴりぴりとした緊張感を保っているが、ゲイマンとエーヴェリーの脚本は、ベオウルフの冒険にあるはずの精神的基盤を完全に放棄してしまっている。ベオウルフは、なんと人類が勇敢で豪胆であった輝かしい時代を終わらせてしまったのは、「キリスト教における神」の出現だと非難までしてしまっている。もっとも、このセックスと剣劇に彩られた野蛮な世界(マーケティングには最適)には、神のいる場所はない。そこにある欲望は全てを食らい尽くす力であり、映像的に臓物が飛び出るなどというシーンは、観客の楽しみのためだけに存在しているのだから。
いずれにしても、ゼメキスが人間の約束事よりも見世物感を優先したことや、視覚効果を大きな仕掛けや流動性で可能にし、登場人物をただの3Dのロボットのようにしてしまう媒体に頼りすぎてしまったことからも、深い部分での道徳観が欠如してしまっていることは明らかである。2004年の『ポーラー・エクスプレス』に比べると技術の進歩には目を見張るものがあるが(特に、登場人物のより人間に近い目の動きなど)、結局、そこに演じている人物が見えてくるようなことはないのである。
いずれにしても、ゼメキスが人間の約束事よりも見世物感を優先したことや、視覚効果を大きな仕掛けや流動性で可能にし、登場人物をただの3Dのロボットのようにしてしまう媒体に頼りすぎてしまったことからも、深い部分での道徳観が欠如してしまっていることは明らかである。2004年の『ポーラー・エクスプレス』に比べると技術の進歩には目を見張るものがあるが(特に、登場人物のより人間に近い目の動きなど)、結局、そこに演じている人物が見えてくるようなことはないのである。
生き生きとした出演者たちと華麗なる視覚効果 だが、監督は登場人物たちに息を吹き込むことを拒否
肉体強化を誇示し - その結果、彼自身と言うよりは『ロード・オブ・ザ・リング』のショーン・ビーンに見えて仕方がないのだが - がらがら声のウィンストンは男らしく、役柄の持つ傲慢さと不遜さ(「私がベオウルフだ!」とキャッチフレーズのように時の声を上げまくっている)を、そしてその後は、疲労感や後悔を伝えることには成功している。しかし、今回のベオウルフは、視覚的にと言うよりは口先ばかりが先行してしまっており、中世のタフガイが正しく持っているはずの感情の高ぶりを完全に表現しているとはいえない。
他の俳優たちは、小さな役柄ながら、生き生きとした印象を残している。ジョン・マルコビッチは、宮廷でのベオウルフの嫉妬深いライバル、アンファースを楽しいほどに慇懃無礼に演じている。ライト・ペンも、ふたりの夫に裏切られる女王を演じ、傷つく女性の美しさを見せている。また、ブレンダン・グリーソンも、ベオウルフの忠実な従士ウィーグラーフを演じ、心地よい生真面目さとユーモアをしっかりと見せている。
松明で照らされたような室内シーンと、ある意味対極をなすように、ゼメキスと撮影監督ロバート・プレスリー(『ポーラー・エクスプレス』の撮影も担当)は、凍てついたスカンジナビアの景観を堂々たるクレーンショットで撮りあげたり、グレンデルの最初の襲撃に青白い火花が散るようなストロボショットを使用したりと、華麗なる視覚効果を作り上げている。この二つのシーンは、3Dで見ると特に、その効果が良くわかる。ダグ・チャンのプロダクション・デザインや、ガブリエラ・ペスクッチの衣装も、設定にある原始主義を適切に表現している。
またまた繰り返しになってしまうが、この『ベオウルフ/呪われし勇者』は、その勇者の行動がいかにして伝説となり、神聖なものとして吟遊詩人たちの歌に、戯曲の中に、そして拡大解釈をすれば、映画の中にさえ、永遠に祭られていくかということを言及している。だが監督ゼメキス自身、神話の不死性を求めはしたが、悪いことに、登場人物たちに息を吹き込むことだけはしたくなかったようなのである。
他の俳優たちは、小さな役柄ながら、生き生きとした印象を残している。ジョン・マルコビッチは、宮廷でのベオウルフの嫉妬深いライバル、アンファースを楽しいほどに慇懃無礼に演じている。ライト・ペンも、ふたりの夫に裏切られる女王を演じ、傷つく女性の美しさを見せている。また、ブレンダン・グリーソンも、ベオウルフの忠実な従士ウィーグラーフを演じ、心地よい生真面目さとユーモアをしっかりと見せている。
松明で照らされたような室内シーンと、ある意味対極をなすように、ゼメキスと撮影監督ロバート・プレスリー(『ポーラー・エクスプレス』の撮影も担当)は、凍てついたスカンジナビアの景観を堂々たるクレーンショットで撮りあげたり、グレンデルの最初の襲撃に青白い火花が散るようなストロボショットを使用したりと、華麗なる視覚効果を作り上げている。この二つのシーンは、3Dで見ると特に、その効果が良くわかる。ダグ・チャンのプロダクション・デザインや、ガブリエラ・ペスクッチの衣装も、設定にある原始主義を適切に表現している。
またまた繰り返しになってしまうが、この『ベオウルフ/呪われし勇者』は、その勇者の行動がいかにして伝説となり、神聖なものとして吟遊詩人たちの歌に、戯曲の中に、そして拡大解釈をすれば、映画の中にさえ、永遠に祭られていくかということを言及している。だが監督ゼメキス自身、神話の不死性を求めはしたが、悪いことに、登場人物たちに息を吹き込むことだけはしたくなかったようなのである。

































