『この自由な世界で』
●原題:IT’S A FREE WORLD…/2007年/英、伊、独、西/2008年8月16日(土)から日本公開
●配給:シネカノン
●配給:シネカノン
72歳のケン・ローチに深甚な敬意を

(c) Sixteen Films Ltd, BIM Distribuzione, EMC GmbH and Tornasol Films S.A.
こんな真摯な映画を面白いといっては不謹慎かもしれないが、とにかく間然するところなく面白さ溢れ、観客を惹きつけてやまない映画である。映画監督に年齢はないのかもしれないが、かくも若々しく生気みなぎる快作を送り出す当年とって72歳のケン・ローチに、まずは深甚な敬意を表したい。
さてなにがそんなに面白いのかといえば、とにかく主人公のアンジーというシングル・マザー、彼女のシンプルながらきめ細かな人物造形が、観る者をいらだたせ、首をかしげさせ、時にははらはらさせ、最後の最後までわれわれを引っ張りまわすからである。うがった人物表現は映画を実らせるためのイロハのイだが、ろくに人物を描けない昨今の多くの映画群に対して、名匠はいわば基本の強さを見せつける。
イギリスの旧套の男社会のなかで能力を発揮できず、体よく使われていたアンジーは、ついに自らが「搾取」の側にまわるべく起業する。冒頭の困った上司のオヤジたちが別テーブルのアンジーを呼びつけてセクハラに走るくだりで、アンジーの置かれている状況を(そのうんざりするような空気感まで含めて)いちどきに凝縮して表現してみせる演出の手腕が見事だが、以後アンジーが貧しく求職にあえぐ移民たちを利用した人材派遣業に血道をあげるさまが、切り詰めた無駄のない表現を通して着々と表現されてゆく。
さてなにがそんなに面白いのかといえば、とにかく主人公のアンジーというシングル・マザー、彼女のシンプルながらきめ細かな人物造形が、観る者をいらだたせ、首をかしげさせ、時にははらはらさせ、最後の最後までわれわれを引っ張りまわすからである。うがった人物表現は映画を実らせるためのイロハのイだが、ろくに人物を描けない昨今の多くの映画群に対して、名匠はいわば基本の強さを見せつける。
イギリスの旧套の男社会のなかで能力を発揮できず、体よく使われていたアンジーは、ついに自らが「搾取」の側にまわるべく起業する。冒頭の困った上司のオヤジたちが別テーブルのアンジーを呼びつけてセクハラに走るくだりで、アンジーの置かれている状況を(そのうんざりするような空気感まで含めて)いちどきに凝縮して表現してみせる演出の手腕が見事だが、以後アンジーが貧しく求職にあえぐ移民たちを利用した人材派遣業に血道をあげるさまが、切り詰めた無駄のない表現を通して着々と表現されてゆく。
排撃と憧れ両極の対象であるヒロイン、アンジー
11歳の男の子を実家に預けっぱなしのアンジーは、一見してとても子持ちとは思えないような色香と体型を維持し、颯爽とライダースジャケットに身を包んでナナハンを操る、いわばイケてるワーキング・ママである。ダリル・ハンナをヤンキーふうにしたキルストン・ウェアリングが、このアンジーを絶妙に演じている(というか、演じているとは思えないくらいの自然さだ)。
少々グレかかって停学になったりしている幼い息子にもかまわず、あやしげな人材派遣稼業に精出すアンジーは、良識的な両親からは非難轟々で学校からも冷ややかに見られているが、今やらなければこの女ざかりをふいにしてしまうという焦りもあってか、彼女は暮らしを改めるそぶりもない。母という立場を半ば放棄して断固女であろうとするアンジーの人物像は、世の中の賢母たちの反感を買うこと必至だが、しかしその反感にはきっといくばくかの羨望と嫉妬も含まれていよう。なぜなら、母か女かという選択は、程度の差こそあれあらゆる女性が突き当たる命題だからだ。アンジーのように女としてのエゴを貫き通す存在は、排撃の対象でありつつどこか憧れの対象であるはずだ。
少々グレかかって停学になったりしている幼い息子にもかまわず、あやしげな人材派遣稼業に精出すアンジーは、良識的な両親からは非難轟々で学校からも冷ややかに見られているが、今やらなければこの女ざかりをふいにしてしまうという焦りもあってか、彼女は暮らしを改めるそぶりもない。母という立場を半ば放棄して断固女であろうとするアンジーの人物像は、世の中の賢母たちの反感を買うこと必至だが、しかしその反感にはきっといくばくかの羨望と嫉妬も含まれていよう。なぜなら、母か女かという選択は、程度の差こそあれあらゆる女性が突き当たる命題だからだ。アンジーのように女としてのエゴを貫き通す存在は、排撃の対象でありつつどこか憧れの対象であるはずだ。
観客に極端な振幅を味わわせるケン・ローチ
本作は、まずその助走において、アンジーという善し悪しを超えて興味深く一種魅力ある人物を巧みに描き、われわれ観客を語りに同期させる。そのうえで、ケン・ローチは観客に極端なる振幅を味わわせる。ひとつの極は、感傷や同情は捨て去って拝金主義に走ったかにみえたアンジーがイラクからの不法移民家族をいたわり、危うい不法就労にまで手を貸すというくだり。
もうひとつの極は、金儲けのための事情から偽のクレーム電話を当局にかけて、結果としてこの不幸な一家を含む移民たちを住まいから追い出してしまうくだり。賛否はあろうが、自分の欲求に忠実なところにはある種の共感を覚えたアンジーだが、金のためには手段を選ばなくなる彼女に、観客は徐々についていけなくなるだろう。
そんなアンジーは、「搾取」に怒った移民から路傍で暴力をはたらかれたり、「泥棒」という貼り紙つきのブロックを窓から投げ込まれたり、子どもを誘拐まがいに連れて行かれたうえに自宅で縛られ収益を奪われたりと相当な危険にさらされ、顔を負傷したり恐怖で失禁したりとさんざんな目にあい続ける。観客は、さすがにこんな脅威のつるべ打ちでは、アンジーも屈して廃業するのだろうと予想するはずである。
もうひとつの極は、金儲けのための事情から偽のクレーム電話を当局にかけて、結果としてこの不幸な一家を含む移民たちを住まいから追い出してしまうくだり。賛否はあろうが、自分の欲求に忠実なところにはある種の共感を覚えたアンジーだが、金のためには手段を選ばなくなる彼女に、観客は徐々についていけなくなるだろう。
そんなアンジーは、「搾取」に怒った移民から路傍で暴力をはたらかれたり、「泥棒」という貼り紙つきのブロックを窓から投げ込まれたり、子どもを誘拐まがいに連れて行かれたうえに自宅で縛られ収益を奪われたりと相当な危険にさらされ、顔を負傷したり恐怖で失禁したりとさんざんな目にあい続ける。観客は、さすがにこんな脅威のつるべ打ちでは、アンジーも屈して廃業するのだろうと予想するはずである。
徹底して負けないさまが面白いところ
ところが、どうしたことか結末部のアンジーは肩で風きってウクライナにまで乗りこんでゆく。目的は、移民労働力の現地調達であり、とことん懲りないアンジーなのであった。この裏切りの連続、つまりアンジーの徹底して負けないさまが本作の面白いところだ。
そして、鮮やかなレインボーを背景にナナハンと女ライダーがあしらわれた彼女の派遣会社のマークを見て、キエフの見るからに欲も得もなさそうな妙齢の婦人が「この虹が私に幸福を運んでくれる」とつぶやく。その婦人のある意味傷ましい「カモじみた風貌」の静かなフェード・アウトによる幕切れは強烈にシニカルな余韻を残す。資本主義社会は、騙す奴と騙される奴によって成立しており、金を追いかけて凶悪さを増すアンジーの表情と、無防備でイノセントなキエフの婦人の表情の対比がそれを雄弁に物語る。
そして、鮮やかなレインボーを背景にナナハンと女ライダーがあしらわれた彼女の派遣会社のマークを見て、キエフの見るからに欲も得もなさそうな妙齢の婦人が「この虹が私に幸福を運んでくれる」とつぶやく。その婦人のある意味傷ましい「カモじみた風貌」の静かなフェード・アウトによる幕切れは強烈にシニカルな余韻を残す。資本主義社会は、騙す奴と騙される奴によって成立しており、金を追いかけて凶悪さを増すアンジーの表情と、無防備でイノセントなキエフの婦人の表情の対比がそれを雄弁に物語る。
凶悪なアンジーがイケて見えるわれわれもまた資本主義の罠に……
いい齢してケバいスタイルでクラブに繰り出し、適当に男漁りに興じたりするアンジーは、とことん女を諦めないが、母としてはたまに一緒にいる息子に粗悪な暴力描写の娯楽映画と宅配ピザをあてがうばかりだ。そんなありさまに「おまえは息子にスニーカーやバイクを買い与えたら満足なのか」と老父から皮肉られるアンジーだが、こうした困ったママは日本にもごろごろいるので、もはや遠いイギリスの出来事とは思えない。
一方、くだんのキエフの婦人やアンジーが一時助けるイランの婦人は、無条件に女を棄てた母の顔だ。きっと本当は色香も洒落っ気も二の次に、自然に女から母へ変貌するのが人間としては本来的なのだろうに、アンジーはむきになってそれを忌避する。ここには女から母になるのはイケていないことだ思わせる資本主義の罠が透けるし、どこか搾取される婦人たちより凶悪なアンジーがイケて見えるわれわれも、その罠に毒されているに違いない。
一方、くだんのキエフの婦人やアンジーが一時助けるイランの婦人は、無条件に女を棄てた母の顔だ。きっと本当は色香も洒落っ気も二の次に、自然に女から母へ変貌するのが人間としては本来的なのだろうに、アンジーはむきになってそれを忌避する。ここには女から母になるのはイケていないことだ思わせる資本主義の罠が透けるし、どこか搾取される婦人たちより凶悪なアンジーがイケて見えるわれわれも、その罠に毒されているに違いない。
酷薄な経営者と化すラストシーン
それにしても、なぜアンジーはここまで金についてハードボイルドにならなくてはならないのか。
起業家の彼女が取引先の不渡りで追い詰められたように、「金を握るトップの連中」だけが笑う社会の仕組みが、彼女をエゴイスティックに、狡猾に、冷酷に鍛え上げたわけである。映画のはじまりにおいていくばくかの関心を誘ったアンジーだが、試練や脅威に肥やされていよいよ酷薄な経営者と化すラストシーンにあっては、もはや彼女は共感が難しい遠い存在になっている。往年の傾向映画のタイトルではないが、「何が彼女をさうさせたか」がケン・ローチの訴えたかったところであろう。
アンジーはもとより周囲の人物像もいちいち素晴らしく、ケン・ローチ最良のパートナーであるポール・ラバティのシナリオは緊密な旨味に満ちている。
起業家の彼女が取引先の不渡りで追い詰められたように、「金を握るトップの連中」だけが笑う社会の仕組みが、彼女をエゴイスティックに、狡猾に、冷酷に鍛え上げたわけである。映画のはじまりにおいていくばくかの関心を誘ったアンジーだが、試練や脅威に肥やされていよいよ酷薄な経営者と化すラストシーンにあっては、もはや彼女は共感が難しい遠い存在になっている。往年の傾向映画のタイトルではないが、「何が彼女をさうさせたか」がケン・ローチの訴えたかったところであろう。
アンジーはもとより周囲の人物像もいちいち素晴らしく、ケン・ローチ最良のパートナーであるポール・ラバティのシナリオは緊密な旨味に満ちている。

































